エイ太の雑感

日々のあったりなかったりをそこそこゆるく書いていくブログです。

恩師の死に際して

     これを書いている今、電車に乗って恩師の葬儀に向かっている。本当であれば今日届いたデスクトップパソコンを満面の笑みで弄って遊んでいたはずだ。一応宅配便の人からパソコンは受け取るだけ受け取って、喪服にすぐ着替えてから家を出た。

 

     多分まだ30代後半に差し掛かったくらいだと思う。中学生時代の2年間担任をしてもらったというのに、先生のことに関して知ってる情報は少ない。W大学に二浪して入って、一留もして卒業したとか、ゲームで遊ぶのが好きだけど、オンラインプレイは好んでいなかったこととか。プライベートなことで今思い出せるのはそれくらいかもしれない。

 

     あまりにも突然のことだったので、その報せを聞いたときは全くもって信じられなかった。人づてに聞いたので、聞き間違えたんじゃないか、伝言ゲームのようにどこかで情報が変わったんじゃないか。旅先で飛び込んで来た話で、楽しむムードも一変、上記のようなことをしばらく考え込んで、同行していた友人とは口がきけなくなってしまった。かくいう彼も中学時代は同じクラスだったので、悲痛な面持ちを浮かべて、何か話題を切り出して来ることもなかった。まともに話すことができたのは確か数時間後で、でも先生の死については本当なのかどうかということだけ触れ、あとはその話題を避けた。

 

     彼と先生の死について話すこととなったのは、翌日の帰り際。どういう流れで話したのかは忘れてしまったけど、特定の人物の死を語ってしまうと、その人の死がなんだか貶められてしまうのではないか、という話だった。先生の訃報を聞いてから、僕は元クラスメイトで今も親しい人にだけそのことを伝えたのだが、ある人が先生への思いを語ってきてくれたのだ。悔しい、と。

 

     僕はなぜだか違和感を抱いてしまった。彼の語る言葉に、嘘はないのはわかってる。だけれど、先生の死が陳腐になってしまっているのではないか。なぜそう感じてしまうのか。言葉は何かを表現する1つの手段ではあるが、どうしてもその性質上、他のものと区別してしまう機能があるので、あることを表明すると、表明しなかったことは考慮されていないように思えてしまう。つまり先生の死に関する感情や考えを全て内包しきれないまま、言葉として出力してしまうが為に陳腐に聞こえてしまうのではないか。旅行に同行していた友人も同じような考えを持っていた。その友人はある人が亡くなったとき、他人に個人的な死への思いを語るのは、自分に酔いしれているからできることなのではないかとも語っていた。ある意味亡き人に対する冒涜でもある、と。

 

     僕もそんなことを思いつつ、しかしながら話しているうちに自分の過去を振り返って、またちょっと違った意見も抱き始めた。僕はここ数年、2、3年おきに立て続けて祖父母3人を亡くしている。そのうち2人は何の前触れもなく突然亡くなった。前もってもうもたないことが知られていたら、気持ちの整理とは言わないまでもその人の死を覚悟できる時間はあることが多い。誰にでもその覚悟ができるはずだとは思わないけれど、少なくとも自分の場合はできた。もちろんいざ亡くなってしまうと哀しいのには変わりはないのだけど。一方急に亡くなってしまうとそんな余裕はないだろう。まず誰もが思うのは、なぜ?ということと、信じられないということ。気持ちが混乱して、大抵の場合無気力になってしまう(あるいは断固として認めないのか)。自分がどう思っているのかわからなくなることもあるかもしれない。しばらく一人になりたくなったり、誰とも口がききたくなくなる。

 

      しかしそんな状態も時間が経つにつれてある程度は解きほぐされていき、落ち着きを取り戻す。だけど、ここからが肝心なのだが、解きほぐされきってはいないのだ。こんがらがった毛糸玉を解こうとするとき、簡単に解ける部分と解けない部分がある。簡単に解けない部分は固結びになっていたり、見たこともない結び方になってしまっている。そしてだいたい固く結ばれている。これが言葉で表しきれない何かではないか。そうした場合、効果的にそれの解消を試みることができるものの1つに、とにかく何らかの手段で気持ちを表現するのがあると思う。どんな方法でも良い。ある人は思いっきり歌うことかもしれないし、ある人は好きなスポーツに打ち込むことかもしれない。絵を描いたり、今僕がやっているように文章を書くこともある。そんな中で比較的身近だと思われるのが、上記したことと矛盾するかもしれないが、誰かに話すことなのではないか。クラスメイトの彼はその相手に僕を選んだ。言葉にならない言葉で、なんとか塊を解こうとして。以上のような行為が必ずしも解消をもたらすとは限らないけれど、ふとした瞬間に緊張が緩んだりしてシコリがなくなることだってあると思う。解くのに疲れて諦めようとした瞬間に紐が解けることがあるように。僕は昨年祖母を亡くしたとき、大学の学生相談を使ってそれを試みた。

 

     そう考えると、他人に対して死への思いを表現することを馬鹿にすることなんてできないし、やっぱり一概に悪いとなんか言えるわけがないのだ。友人と話してる最中にそう思い至ったので、若干断罪口調だったのをそれからは濁し始めた。ただ、1つこれには条件があって、カウンセラーとかその類のプロでない限り、話す相手に予め(死に関する)複雑な思いを語って良いか同意を得る必要があると思う。友人にプロがいたとしても、ただで聞いてもらおうとするのは良くない。それだけ、こういった話を聞くというのは対応するのが難しいことだから。

 

     先生には高校に上がって担任ではなくなってからも非常にお世話になった。受験期には学校に行けなくなってしまった僕と人生相談をしてくれたし、復活してからは小論文もこまめに見てもらった。大学に入ってからも学校にはちょくちょく顔を見せ、職員室でまごついている僕を見つけると、呆れたような顔を見せつつも、僕のことを呼んで、話に耳を傾けてくれた。また今後の進路について相談に乗ってもらおうと考えていた矢先に、今回の話が入ってきた。

 

     今日が先生と会える最後の日。対面するや否や思わず泣いてしまうかもしれないけど、先生の最後の晴れ舞台、しっかりと見届けるつもりだ。