エイ太の雑感

日々のあったりなかったりをそこそこゆるく書いていくブログです。

映画『サーチ/search』のバックボーンを探る試み(ネタバレあり)

   今回のブログは映画『サーチ/search』について考えてみたい。ひさびさに僕の解釈を誰かに伝えたくなった映画だった。この先からはネタバレを含めた考察となるので、ネタバレ嫌だという人はぜひ鑑賞してから読んで欲しい。またこれはあくまで一つの解釈であるので、こういう解釈もあるという方はぜひ教えて欲しい。

 それと鑑賞したのが11月6日で、これを書いているのが11月10日で記憶が少し曖昧なので、もし映画の描写で不正確なところがあれば教えていただきたい。

あらすじ

忽然と姿を消した16歳の女子高生マーゴット。行方不明事件として捜査が始まる。

家出なのか、誘拐なのかわからないまま37時間が経過。

娘の無事を信じる父デビッドは、彼女のPCにログインしSNSにアクセスを試みる。

インスタグラム、フェイスブックツイッター

そこに映し出されたのは、いつも明るく活発だったはずのマーゴットとはまるで別人の、自分の知らない娘の姿があった。

(ホームページより引用: 映画『search/サーチ』 | オフィシャルサイト | ソニー・ピクチャーズ

ソリッドシチュエーションスリラーとして優れた点

パソコン画面である必要性

 この映画の最も際立った特徴は、全編を通してパソコンの画面で繰り広げられるということだろう。どのメディアもそのことには触れているし、そういう映画はこれまであまりなかったという触れ込みで、その斬新さを配給会社は推している(一応僕の知っている限りでは、『アンフレンデッド』というホラー映画はパソコン画面上で話を展開しているけれども)。しかし、そうした映像表現としての目新しさだけでないものがあるのではないか。つまり、表現方法と作品の内容に密接な関わりがあるからこそ、この作品には深い面白さがあったのではないだろうか。なぜパソコン画面上で話が展開される必要があったのかを考えてみよう。

 パソコンにはどのような特徴があるだろうか。パソコンは機械なので、こちらが働きかけない限り動くことはない。この文章もパソコンを使って書いているが、こちらが文章を書こうとしてキーボードを打たなければ、文字を起こすことはできない。つまり、使用する人が能動的に働きかけなければならない。今作は、そのような性質を持つパソコンの中でも、主人公であるデビッドが使用することになる複数のパソコンの画面部分を切り取ってスクリーンに映すという表現手法を取っている。

 そうすることで、主人公の心情や考えを上手く表現することに成功している。小説であれば作風によって主人公や登場人物の心情が語られることがあるが、映画は主人公や登場人物が胸の内で語っているという形で心情を表現されることがままある(僕自身はこういうことをしている映画があまり好きじゃない)。しかしこの作品では、例えばデビッドがマーゴットにメッセージを送ろうとして長文を書くものの、それを消す場面や、デビッドの見ている情報やウインドウ同士の位置関係(最後の方のメモリアルワンのモデルの写真を比較したり、動画と写真を見比べたり)などから、さらに娘の情報をかき集めているうちにデスクトップ上にファイルやフォルダが散乱しているというような状況から、つまり能動的にデビッドが行為した結果から手に取るようにデビッドの思考や感情を読み取ることができる(そしてここから鑑賞者が得られる情報が伏線として劇中回収される)。僕たちは普段かなりの頻度でパソコンに触れていて、経験的に自分たちが使っているときの思考や感情とパソコンの状態の関係を知っているからこそ、デビッドのパソコン画面を見てもそうしたことがわかってしまう。このことによって、鑑賞者とデビッドの心理的距離感がぐっと縮まる。

 もう一つの利点は作品内の世界描写の在り方、主観性にあり、この部分が後々説明することにも効いてくると僕は考えている。『クローバーフィールド』とか『ハードコア』に見られるように、ある人物から見た視点で作品内の世界を描こうと試みている作品もなくはないけれども、『サーチ』はそうした作品内の世界すらもパソコン画面上でしか描かれないという点で違う。主観の指す意味が少し違うのだ。パソコン画面は、デビッドの行為とその行為によって反映される作品内の世界、そしてデビッドが受けた影響を表象するという意味で主観的である。ではこのことが意味するのは何だろうか。

 パソコンはインターネットに繋がっていることで大きな力を発揮するが、今作ではデビッドがインターネット上にある様々な機能を用いて娘の捜索をする。サーチ(捜索)のためのサーチ(検索)、というわけだ。つまり、真実にたどり着くための手がかりはデビッドの目の前にある娘のパソコンにすでに一応用意されている。もっと正確な言い方をするのであれば、デビッドのパソコンの使い方、検索の仕方次第で、答えから遠ざかることも、近づくこともできる、とでも言えば良いのだろうか。検索の方法、手がかりはインターネットに予め揃っている。FacebookTwitterTumblrYoutube、GoogleMapなどがそれだ。そして方法によって得られる情報が変わってくる。

 ミステリ小説や映画であれば、被害者や現場の状況の変化などから手がかりを得て推理を進める。また捜査手法は作家の考える登場人物像によって一定の傾向があることが多い。ただ情報を得る対象は変わらない。一方で今作は妻が亡くなって以降デビッドと娘の関係が微妙であることを示唆する場面があるので、おそらくデビッドが娘の変化を知っていたということはない。デビッドはインターネット上にある様々な検索エンジン等を駆使して手当たり次第探すことするが、その検索手法によって得られる情報、つまり娘のどの側面の情報(オンライン上の娘の姿とかオフラインを含めた人間関係とか)を得られるのかが変わってくる。全てはデビッド次第なのだ。そうして出た行動の一つが娘の友人に尋ねてみるということだった。しかし親友には思い当たったものの、現在の高校の友達をデビッドは知らなかった。何とかしてFacebookに入って友達リストに登録されている人に連絡を取っていき、その中で実は学校での人間関係が上手くいっていないことをデビッドは初めて知る(このことからも父と娘の関係が冷え切っていることが伺える)。娘の事実に近づく。そうした作業をこなしていくうちにも、時間は刻々と過ぎていき、不安は募っていく。同時並行的にデビッドは様々な情報に直面するが、不安も影響して、(それぞれの検索手法によって得られる)情報の解釈と、情報の確かさ、事実が事実であるかどうかの境目がわからなっていく。区別がつかなくなる結果、捜索状況が迷走する(真実から遠ざかってしまう)。そして、デビッドにとっての娘の人物像、果てにはデビッドが作品内で接してきた登場人物たちの人物像にも揺らぎが生じてしまった。この揺らぎの部分は、鑑賞者にとっては何度も繰り返されるどんでん返しとして機能する。

検索するという行為の特性と情報の扱われ方

 人物像の揺らぎをパソコン画面によって物語ることとどのように関連づけられるのかは、他のスリラー映画と比較してみるとわかりやすくなるかもしれない。通常スリラー映画というのは、主人公と敵対する人物が示唆されることが多い。例えば『フォーン・ブース』では、主人公であるスチュワートが、公衆電話に掛かってきた電話に答えるところから始まるが、その相手はスチュワートの命を狙っている。

  『ソウ』では、いつの間にか密室に閉じ込められていた二人の男が、部屋の中央にあった録音テープを聞くことで、何者かに捕らえられたことを知る。

 そして『プリズナーズ』では、主人公の娘が行方不明になるが、現場付近で目撃された不審なRV車を運転していたとみられる知的障害を持つ容疑者が登場する。

 もちろんスリラー映画にも様々なプロットがある(故にスリラー映画にもバリエーションがある)ので一概には言えないのだが、今挙げた三つの映画に共通していそうなことを考えてみて欲しい。それは、犯人や容疑者と主人公の間で情報量に差が生じているということだ。これが俗にいう心理戦だと僕は考えている。『フォーン・ブース』と『ソウ』であれば、主人公・登場人物が犯人について知っていることより犯人の方が主人公・登場人物について知っていることの方が多いし(『ソウ』は出てくる男二人の間でも、互いに関してなどの情報量が圧倒的に不足していて、そのせいで互いが互いに疑心暗鬼になったり、それでも協力して情報を共有していくことで、真実に近づいていくという面白さがある)、『プリズナーズ』に関しては、容疑者とみられる男から情報を引き出すことができないという具合に。量に差があり、大体の場合犯人の方が多くの情報を持っていて、つまり支配権は犯人側にあるところを、主人公や登場人物がいかにして犯人を出し抜くのか、あるいは情報不足を切り抜けるのかにスリラーの面白さがあると思う。また、他に共通している点は、犯人の存在が明確に想定されている、想定することが可能であるということだ。

 それに対して『サーチ』はどうだろうか。上の三作品は情報の非対称性があったが、『サーチ』では、質という観点において情報に違いがあると言えるのではないか。確かに量という点でも、パソコンの方がデビッドより娘の情報を持つと言えるだろうが、ここで最初に述べたパソコンの性質を思い出して欲しい。パソコンはこちらから働きかけるまでは何の反応も示してくれないのだ。デビッドがどうパソコンを使いこなすのか、どのような切り口から娘について検索するのかによって情報に偏りが出たり、全体として得られる情報の内容が変わる。さらに情報の意味もデビッドの解釈次第で変わってしまう。これらのことを情報の質という言い方でまとめてみたい。

   良い例が娘とデビッドの弟であるピーターのやりとりだろう。あれは鑑賞者からしてみればミスリードだと後から解釈ができるが、デビッドはピーターが犯人だと思ったに違いない。そうでなければ、ピーターの家にわざわざ防犯カメラなどつけないだろう。結局はマリファナを一緒に吸っていたというだけで、ピーターが犯人という訳ではなかったが、事実云々の曖昧さによって生じている誤解等はこの出来事以外にも劇中ところどころで観測できるように思う。デビッドだけでなくその周辺、#FindMargotに興味を示している人々の一部もデビッドが犯人だというスレッドをネット上に立ち上げていたりする。事実であるのかそうでないのか。これらは現実にあるインターネット上の事実関連の問題、特にSNS上で誰かが発言していることは事実なのかどうか表面からだけ見たらわからないという問題を上手く物語に盛り込めていると思う。事実であるか否かが揺らぐことは、畢竟デビッドが情報を集めていた人物についての情報(マーゴットなど)が事実であるのかどうかによって人物像が揺らぐことである。娘も然り、犯人も然り。そもそも犯人はいるのか、いないのか。犯人の存在を断言することは難しい状況に置かれる。

   もっと簡潔に説明してみたい。さきほどのミステリ小説や映画をまた例にするなら、ミステリは演繹的に考えているが、この作品においてデビッドは帰納的、情報構築的に考えている。上手く伝わっているだろうか。演繹的に考えると、前提が正しければ結論も必ず正しくなるが、帰納的に考えると蓋然的な確かさのある結論しか得られない。帰納法は具体例から一般的法則を見いだす方法なので、その具体例が変われば(今作であれば検索によって得られる情報などがそれにあたる)一般的法則も変わる可能性がある、ということだ。

   この章の結論は、デビッドがどのようにパソコンを使い、そうして得た情報をどのように解釈するのかと、人物像の揺らぎは密接に関わっている。そしてこの部分がこの作品をスリラーとして成立させているのだと僕は考える。

 

親子関係の描写として優れた点

人物像と思い込み

 ところで、身も蓋もない話をすると、『サーチ』の黒幕はヴィック捜査官だった。彼女の息子がデビッドの娘マーゴットを山の中で追いかけ回した結果もみ合いになり、高さ15メートルもある渓谷へとマーゴットを突き落としてしまったのだった。それを聞いたヴィック捜査官はマーゴットは死んだと判断して、息子のために隠蔽に走る。捜査担当者に自ら立候補して、事実をでっち上げてデビッドに提供することで、彼をあらぬ方へ誘導し、それを事実だと素直に受け取ったデビッドはまんまと騙され袋小路へと追いやられてしまった(しかしヴィック捜査官から得た情報を抜きにしてマーゴットがネット上に残した痕跡だけを頼りに考えていった結果、真実へとたどり着くことができた)。つまり、途中からデビッドの情報の解釈にヴィック捜査官のでっち上げの情報が介入していた(これはなんとなくフェイクニュースとかオルトファクトの話を連想させるのだけど、どうだろうか)。しかし、その前に、デビットがヴィック捜査官を信じるに至るきっかけ、理由を与えたであろう場面を確認したい。それは、デビッドとヴィック捜査官がFaceTimeでシングルマザーであることとヴィック捜査官の息子に関して話していた場面だ。ヴィック捜査官の息子は警官である母親の名前を出して募金活動を行っていると見せかけて、実は詐欺を働いていた。それを知ったヴィック捜査官は、本当に募金活動であるということにしてしまったのだった。そしてデビッドにこう言う。親は子供の一面しか知らないものだ、と。息子の行いを正当化してしまったことはのちの隠蔽を示唆しているようにも思えるが、ここで重要なのは子供の一面しか知らないという発言の方だ。

 これまで挙げてきたことに加え、冒頭のマーゴットとのやりとりをみても、デビッドとマーゴットの間に大きな溝があることは確かである。マーゴットのパソコンのデスクトップは母親と二人で写っている写真になっている。おそらく母親の死をまだ彼女の中で対処しきれていないのだろう。マーゴットはピアノが好きなのになぜ何も言わずにやめたんだ、という旨の発言をデビッドはしていたと思うが(曖昧)それに対してピーターは、ピアノは母親を思い出すから辛いんだ、マーゴットは母親について話したかったのに、デビッドが聞かなかったから良くないんだということを(確か)言っていた。

 ここからわかるのは、デビッドはマーゴットに対する思い込みが多分にあるということである。母親が亡くなって以降、デビッドとマーゴットは母親の死についての話し合い、打ち解けあいをしないことで、表面的なやりとりしかできなくなってしまったのだろう。そうしてデビッドはマーゴットの変化を知ることができず、それに対してマーゴットは父親の見出す娘像との一致を試み、それを演じるようになる。デビッドにしてみれば、演じられた娘像が娘について知っている一面であって、母親の死によって変容した娘は知らない一面となってしまっている。

昔に作られた仮象への愛と変化の受容を踏まえた愛

 ここで、親子関係という観点で明確な対比構造があることに注目したい。それは、デビッドとマーゴットに対して、ヴィック捜査官とその息子が対置しているということである。デビッドはシングルファザーで、ヴィック捜査官はシングルマザーである。そして、二人とも自分の子どもを救うために行動している。では、この二人にはどこに違いがあるのだろうか。

 違いは子どもに対する思い込みを捨てられたかどうかにある。ヴィック捜査官は逮捕された後の事情聴取で、あの子には刑務所暮らしが無理だ、という旨の印象的な発言をしている。つまり、彼女の息子に対しての思い込みがあったのではないだろうか。彼女は仮象としての息子像(昔に見出した息子像)を愛したのであって、そこにいる息子を愛していたわけではないのだ。息子が変化をしていてもそれを受け入れなかった。事情聴取で彼女の描写する息子像は、非常に幼く聞こえる。ノスタルジックではあるけれども、それは現在にいる息子の姿ではない。そのことを受け入れるということは親としては寂しいことではあるのだろう。しかし受け入れなかった結果、ここからは僕の想像の域を出ないが、息子も演じていた部分が本当になった、つまり成長・変化をやめてしまったのかもしれない。息子がニュース番組に映し出されたとき、心なしか彼が幼く見えた。

 それに対して、デビッドはどこかの時点で子どもは変化することを受け入れた。どこの時点だろうか。先ほどのFaceTimeを通じたヴィック捜査官との会話の段階では、彼女の話に得心しているところから考えるにまだ変化することを受け入れていない、思い込みは捨てきれていない。だが終盤、メモリアルワンにマーゴットの映像や写真を送る段階になって、デビッドはある動画だけ削除してしまう。娘であるマーゴットが描いてくれた父としてのデビッドの絵を見せてくれている動画だ。彼はこれを、これだけを消してしまうのである。意味は二つあるだろう。一つは父であるのに娘を守ってやれなかった後悔。もう一つが、象徴としての娘の死である。娘は死んでしまったのだ、と。しかしこの象徴としての娘の死は、別の側面も持つ。それは、思い込みとして持っていた娘像の死だ。この時点で、デビッドは思い込みを捨てれたのではないだろうか。このすぐ後にヴィック捜査官が黒幕であることの手がかりを得ることになり、マーゴットを救うことに繋がるのは、実はこのことと関係するかもしれない。

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※左上には、「彼女(マーゴット)の素性を知るまで、彼(デビッド)は彼女の居場所を探し出すことはできない」と書かれている。

パソコン画面を越えて

 ヴィック捜査官は無事逮捕され、マーゴットの捜索もデビッドが九日間山の中で生き抜いた人の記事を読んでいたおかげもあってすぐに再開、救助されるに至った。その後場面が転換し、今度は娘のパソコン画面がスクリーンには映し出される。デビッドとの一連のやりとりの後、パソコンをシャットダウンする前に、マーゴットはデビッドと仲良く写っている写真をデスクトップの待ち受け画面に設定する。このことから、父と娘の関係に回復の兆しが見て取れる。母親が亡くなった後からこの写真が映し出されるまで、映画の中では親子としてのやりとりはメールを通してしか見られない(救出されたときにはやりとりはなかったと見做して)。しかしこうしてパソコン画面を越えて二人は交流した。パソコン画面が映し出す世界枠(前の章で触れたパソコンからの世界描写)から外れたところで、二人はやっと本当の意味で再会できたのだ。

  それも、デビッドがマーゴットの生還を信じて諦めずにサーチし続け(行動し続け)、その中で一連の出来事を通して新たな父親像、周辺の人物像、そして親子のあり方をサーチして(探して)受容したからなのである。簡単にまとめると、これが『サーチ』のバックボーンの正体だ。

おまけ: デビッドのような体験ができるゲーム?

 少し映画の話から逸れてしまうが、検索して事実を吟味するという意味で『サーチ』に似たようなテーマを持つゲームがある。"Her Story"というPCゲームなのだが、プレイヤーは警察の持つデータベースにアクセスして、作品内に登場する女性に何が起こったのかを推理しいなければならない。ここでは詳細は語らないが、まさにデビッドのような体験ができると僕は思うので、映画を楽しんだ人で気になる人はぜひ遊んでみて欲しい。